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ローラ・インガルス・ワイルダーの旅

自らの幼年時代の記憶をベースに、「大草原の小さな家」など、

米国開拓時代の生活を書いた作家、ローラ・インガルス・ワイルダー。

結婚後、夫アルマンゾと2歳の娘ローズと共に、

旱魃続きのサウスダコタ州から、新しい土地、新しい人生を求めて、

幌馬車で旅にでました。

1894年の夏でした。

その旅の記録は「わが家の道」として出版され

生きていくため

まだ見ぬ新天地をめざした、

1000キロの旅の日々の記録となっています。

「わが家への道」を読んで、

彼女が感じた空の広さを自分の目でみて、

こどのもころから大好きだった

ローラ・インガルス・ワイルダーに関係する場所に

行ってみたいと思いました。

旅は米国中西部、サウスダコタから。

ラピッドシティ空港から、ブラックヒルズ、キーストーンへ。

.

ブラックヒルズにあるキーストンは、

ローラの妹、キャリーが1912年に結婚後住んだ場所です。

当時、ブラックヒルズはゴールドラッシュでにぎわった街でした。

新聞社に勤めていたキャリーは、金鉱山のオーナー、

デイヴィッド・スワンジー氏と結婚。

と同時に、

キャリーはスワンジー氏の亡くなった先妻の

2人の子供の母となりました。

特に下の男の子、6歳のハロルドは、猩紅熱がもとで、ほとんど耳が聴こえず、

病弱でしたが、キャリーの手厚い養育があったおかげで無事に育ちました。

現在、古い学校が

キーストーン歴史博物館として、

キャリーに関するものを大切に展示しています。

キューレーターのJeanie Kirkpatrik さん

どんなものでも、ケースからだして、ていねいに見せてくれます。

博物館内部

キャリーの大切な持ち物

キャリーと夫デイヴィッド

キャリーの遺品のひとつ。

幼いころ家族で聴いた、

とうさんのヴァイオリンを思わせたことでしょう。

キャリーとローラの姉、メアリーが作ったビーズ細工。

盲目のメアリーは、

かあさんとサウスダコタのデ・スメットに暮らしていましたが、

かあさんが亡くなった後、ここキーストーンでキャリーと一緒に暮らしました。

彼女はかあさんの死から4年後に亡くなりました。

全盲の人が作ったとは思えない細かいていねいな作品です。

Jeanie さんが、ヴィネガーパイを作って、待っていてくれました。

ローラの料理本、“Little House Cookbook "のレシピから作ったそうです。

やさしい味でした。

この博物館は、昔の学校を使っており、

当時の入り口で、ひもをひいて、授業の始まりを告げる鐘をならさせてもらい、

子供のように興奮しました。

キーストーン墓地

Keystone Cemetery

墓地からの風景。

マウント・ラシュモアの彫刻が遠くに見えます。

ブラックヒルズの町のはずれに、

キャリーの夫デイヴィッドと前妻、そして息子、ハロルドの墓地があります。

現在では、キーストーンは、

大統領の彫刻がある場所として有名な観光地となっています。

1927年から1941年にかけて、

アメリカ政府から依頼されたガットン・ボーグラムが、ラシュモア山の固くて白い花崗岩に

4人の大統領の彫刻を彫りました。

ボーグラム氏が彫るためのよい場所を探していた際、

夫、デイヴィッドは探すのを手伝い、

息子ハロルドは、彫るのを助けた1人でした。

しかしながら、ラシュモア山を含む、ブラックヒルズ一帯は、

ネイティブ・アメリカン、つまりインディアン、スー族の聖地でした。

金鉱が発見されたことで、ゴールドラッシュも起こり、彼らの聖地は不法に荒らされ、

聖地を守るスー族と白人との間で激しい抗争が起こりました。

そもそも自分たちのものであったネイティブ・アメリカンからすると

この破壊は法も定めているように間違いでありますが、

開拓の歴史そのものが、もともといた民族にとっては略奪の歴史。

しかし、今はそんな抗争の血を感じる場所ではなく、

夏休みがはじまり、キャンピングカーでにぎわう避暑地のキーストーン。

初夏の澄んだ山の空気と紺碧の空のもと、

キーストーンの人々が眠る墓があります。

左からキャリーの夫、デイヴィッドの墓

息子、ハロルドの墓

デイヴィッドの前妻エリザベスの墓。

キャリーが愛情をかけて育てたハロルドは、

1939年、28歳の若さで、車の事故で亡くなってしまいました。

その1年前の1938年には、夫デイヴィッドが亡くなり、

短い間に、最愛の人を2人も亡くし、厳しい時だったことでしょう。

キャリー自身は、亡くなった後はここには眠らず、

本人の希望で、両親とメアリーと共に、デ・スメットに葬られました。

前妻の墓があることもあったでしょうが、

40才すぎまで独身で,デ・スメットですごしたので、

生まれ育った家族と一緒のほうが落ち着いたのでは、

と思ったりしました。

キャリーの人生

キャリーが通っていた Keystone Congregational United Church

キャリーは夫と息子の死後も、この地で教会活動など、精力的に活動しました。

もう1人の前妻の娘さんのメアリーや、その家族とすごし、

ローラとアルマンゾも、1931年と1939年の2度にわたって、ここを訪れています。

ローラの小説の中では、

彼女はやせっぽちでいつも頭痛がして、

ローラが守ってあげなくてはならない気の弱い妹、というイメージでしたが、

彼女が生きた場所で,キャリーの生き方をみると

まったくひ弱な人生ではありませんでした。

独身のときは新聞社で働き、

1人で自分自身の開拓農地を申請、

苦労しながらもそれを手に入れ、

結婚後は、突然2人の子供の母親になり、立派に育て、

晩年は、教会活動をしながら、地域の重要な1人となったキャリー。

自制心の強い、たくましいインガルス一家の血が

まさに流れているんだなとひしひしと感じました。

キーストーンの旅で、いろいろ説明してくださった Bonita Ley さん。

元学校の教師で、キャリーの時代の先生の服を着てきてくれました。

大きな声で、かくしゃくと説明する姿は、引退したといっても、まさに先生そのもの!

ローラの時代は、すべての年齢の生徒を1人の先生が教えるのですから

きっと大変だったことでしょう。

その苦労の様子は、ローラの夫、アルマンゾの幼年期を書いた

「農場の少年」にもありありと出てきます。

(生徒になめられ、学級崩壊し失敗している先生の姿も;)

当時の学校。トイレは外にありました。

通りがかりの町の人。

キーストーンは空気が本当に澄んでいて、

夏にこのバイクで散歩したら、さぞかし気持いいことでしょう。

お昼ごはん。

きちんとほんとのじゃがいもを切って揚げていておいしい。

カリカリの塩気の強いベーコンと、フレッシュなトマト、

とても酸っぱいピクルスがよく合う。

1880年の蒸気機関車に乗る

夏の間だけ、キャリーも乗ったであろう蒸気機関車が走っています。

馬の次にきた次世代交通機関(!)は、蒸気機関車。

乗り物に乗るとき人はいつも高揚感でいっぱいになるのは、いつの時代も一緒。

キーストーンとヒルシティを1時間ちょっとかけて走ります。

ヒルシティから戻って来た汽車に乗り込みます。

準備ができたら

乗車開始。

時折聞こえる汽笛と、開いた窓からの心地よい風が、気もちいい。

(汽笛の音↓)

ポップコーン売りもやってきます。

そしてキーストーンを出発し、南下。

ネブラスカへ


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